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Early
Beginnings
海に対する私の深い情熱は、私の父の海に対する愛から引き継がれています。最近では彼のことを、地元のヨットレースで、彼が愛するよく手入れされた木造のボートで、たびたび勝つ熱心なセイラーとして、見かけることでしょう。彼はボディーサーフィンをこよなく愛し、私が子供の頃から家族をビーチにいつも連れて行ってくれました。私たちが70年代初めに海の近くに引っ越してからは、学校や仕事の前に朝早くサーフィンしに、家族で海によく行ったものです。その頃、巨大なサイクロンがいくつか発生し、その波はNorth
Cronulla Park の半分以上に及ぶ、ほとんどのビーチと擁壁を洗い流してしまったことがありました。そんな中、好奇心あふれる私が、なんとか沖に出ることのできる、ある波の良い日がやってきました。そして、14歳の私は、この日初めて8フィートのバレルに入ることになったのです。その時に感じた畏敬の念と驚嘆は今でも忘れることはできません。その頃はまだリーシュコードの無い時代。ビーチに戻るために狂ったようなカレントの中を泳ぐのに残りの朝の時間を過ごすはめになりました。ですが、ビーチに戻ることなんかは全く苦になどなりませんでした。私には、言葉では言い表すことのできない経験であり、もうそこには後戻りすることはありませんでした。
地元のCronulla Community Hall で、私が初めて観たサーフ・ムービーの一つである、アルバート・ファルゾン監督の“Morning
Of the Earth”が上映された時、時を同じくして、当時定期購読していたサーフィン雑誌“Surfer magazine”に
Kevin Naughton と Craig Peterson の放浪のサーフ・トリップが掲載されるようになりました。それにより私のサーフィンに対するビジョンがはっきりと明確になったのです。それは人里離れた未開の奥地へと、パーフェクト・ウェイブを探し求める、魅惑的で夢のような旅に出ることでした。
Bali
70年代半ばに、17歳の時に一人で行ったバリ旅行は、私の人生を変えてしまうものでした。ウルワツで、最初の波で3回のチューブに入り、私はこの魅惑的でピースフルな島、そしてその波と人々に恋に落ちてしまいました。それからというもの、私はインドネシアの人里離れた土地へ探検に出かけるベースとして、長い期間にわたりバリで時間を過ごすことになりました。正確には、私が唯一優勝したメジャー・プロ・イベント“the
Bali Om Pro.Contests”が行われた1981年以降のことです。
Contests
私はコンテストに本気で熱中したことは一度もありません。それを始めたのは、子供の頃に友達と一緒に遊びを楽しむようなものでした。何回か満足する瞬間はあったにしても、それでも私の心が燃えるようなことはありませんでした。私のハイライトのひとつは、私自身、そして誰もが驚いた、1978年の
Coke contestで、メイク(成功)不可能と思われるチューブをメイクして、4度ワールド・チャンピオンになっている
Mark Richards を破り3位になったことでしょう。さらに、自分で削ったサーフボードでそれをやった、ということが、それをもっとスウィートなものとしました。そしてもうひとつ嬉しかったのは、巨大な波が立った1979年、ハワイのサンセットビーチでのSunset
Beach Pro Class Trailsで、初めてのグーフィーフッターとして、コンテストに勝ったことです。
ヘッドジャジのJack Shinpleyもそれに感動し、Tracks誌にこうコメントしました。
「Jim Banksは、サンセットビーチでのバックハンドのサーフィンの定説をくつがえした。」[
Tracks誌 1979年 ]
私にとっては、コンテストに勝ったことよりも、より深い意味のあるものになりました。
Hawaii
70年代後半から80年代前半にかけてのハワイのノース・ショア・シーズンを、私は本当に楽しみました。それは、サーフィンの限界を切り拓くアドベンチャーには、非常に素晴しい場所でした。私の好奇心は、誰もが海に入りたがらないような日に、私を海へと駆り出させ、そして誰もがテイク・オフしないような波に、テイク・オフさせることがしばしばありました。元ワールド・チャンピオンであり、アドバイザーである、Wayne
'Bugs' Bartholomew(ウェイン・バーソロミュー)はそれを見逃さなかったし、Australia’s
Surfing Life誌へのコメントは、私の冒険が気付かれていないことは無かったことを認めています。
「Jim Banks は、ビッグ・ウェイブ・ライダーの中で、一つの謎めいた存在である。一回一回のセッションが彼にとって最後のセッションであるかのように、パイプラインをアタックする。本物の戦士が、最も致命的で最悪な状況の中へと攻め込んで行くように、、、。すべてのセッションで、彼は簡単に死ぬことができただろう。パイプラインが西ウネリでキマっている日、テイクオフゾーンは、ジェリー・ロペスを筆頭に熾烈な序列ができる。そんな中、40メーターインサイドに行くと、いつもJim
Banks がいた。」[ Australia’s Surfing Life 1996
]
Wandering
Off...
1981年、Om Bali Proで優勝し、ツアー・ランキングは16位で自分のサーフィンキャリアは最高潮にあったにもかかわらず、私はコンテスト・シーンから完全に身を引いて、違う方向へ道をそれることを選びました。
メジャー・イベントで勝つことに虚しさを感じ始めるようになり、素晴しい波や、エピックなチューブ・ライドをキメることから得られるような満足感を感じる事はなくなってしまいました。誰か他の人のためにサーフィンすることは、もうたくさんしてきていたし、私の情熱は未開の地へバレルを探すことに注がれていきました。それから10〜15年の間、サーフィンの企業がそのエリアに入って来ることはできませんでした。その間、私は自分のわずかなサーフボード・ビジネスと、サーフィンの雑誌に時折寄稿することで収入を得て、世界で最もチャレンジングで、へんぴな場所へと波を求めに放浪し続けました。一人で探検すること、そして広範囲に及ぶより大きい波を探求することに対する、私の好奇心と情熱について、ウェイン“ラビット”バーソロミューの言葉をもう一度借りると、
「もし、人里離れたへんぴなサーフ・ブレイクで、山のようなホワイト・ウォーターの中に、一人でサーフィンしている誰かを見つけたとしたら、それはJim
Banks に間違いないだろう。」
80年代を通して、サーフィンの世界において、プロサーフィンに注目が注がれていた間、私はどこに行けば、私と私のサーフボードがうまく波に乗れるか、その可能性を求めて、一人で奥地に分け入り、長い時間を探検することに費やしてきました。そして、G-Land、デザートポイント、巨大なウルワツなどの素晴しい波を、たった一人か、もしくはほんの幾人かの探検者たちと、何年もの間、こっそりと楽しんできたのです。それでも、私の放浪が全く世間に知られない、ということはなく、Australia’s
Surfing Life のジェームス・エルダーはこう言っています。
「Jim Banks は本物の探検家だ。自分自身で板を削り、奥地に分け入り、原始的な家に住み、現地の言葉としきたりを習い、自分で自分の道を切り拓いて行く。彼は自立した人間で、それは彼の目の輝きを見れば、一目でわかるだろう。」
90年代半ばに、ジェフ・ホーンベイカーに、G-Land でのQuiksilver Pro のコンテストを撮影するのを手伝ってもらえるか頼まれたことがありました。このイベントを機に、たくさんのプロサーファーが、違う次元のサーフィンに目覚めたと、私は思います。コンテストの後、私と残って滞在していた幾人かのサーファーはエピックなスピーディーズの波をものにしました。ケリー・スレーターは、このセッションの間の私のチューブ・ライドは彼が今まで見てきた中で、ベスト・チューブ・ライドだと主張しました。私は、ケリーが私と一緒にいて、私のチューブ・ライドを目撃してそう言ったということに、感動しました。
Nowadays....
私は今でも、ロング・ディープ・チューブ・ライドへの情熱に再び火をつけに、インドネシアの奥地やオーストラリア北西部の砂漠に静かな逗留をしにいきます。その波に合うサーフボードの開発にも余念がありません。私は、自分の人生を歩んで行くにつれ、何が本当に重要なのかということに段々気がついてきました。人里離れた奥地で、素晴しい波をサーフィンできるという経験がどれだけスペシャルなものか、そして、その日が終わる時に私がもっていけるのは、心の中にある記憶と気持ちだけだ、ということを。
今でも、人から「何をしているのか」訪ねられた時の答えは簡単です。
I surf...(サーフィンです、、、。)
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